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今月の法話(令和元年)

今月の法話(令和元年)

原文:外儀は仏教のすがたにて 内心外道を帰敬せり【愚禿悲嘆述懐讃】
現代語訳:仏教徒のすがたをしていな がら、しかしその一方で、仏教の教えよりももっと大切なものを「帰敬」している
(帰敬とは、大切に敬っているという意味ですから、つまり、生活の中心に据 えてしまっているということです。)
 
以前は「あなたの宗教は?」とお尋ねしますと、多くの方が「無宗教です」と答えられていました。実際には無宗教といいながらも、色んな形で宗教行事に参加したり、或いは宗教的な感覚を持っていたりしていたように思います。ということは無宗教ではないのですが(特定の宗教宗派に所属していないということでいえば、無所属という方が良いのかもしれませんね)、無宗教と仰っていたのですから、宗教を信仰するということが正確には理解されていなかったのかもしれません。

最近でも、やはり無宗教ですと答える方は多いのですが、以前にもまして日々目まぐるしく移りかわっていく時代に翻弄されて、立ち止まったり自分を顧みたりする余裕も無くなりつつあるように思えますが、そんな中で実際には、宗教的なものに救いを求めたり、日常的にかなり宗教的感覚を持って生活をされている方も多いように思います。ただそれが信仰するということとは意識されていない様ですが。

さて、多くの宗教は、思うようにいかず、常に脅かされる私の死の不安からの超越していくことを目的として誕生してきたという歴史があります。そのために色々と儀式儀礼を行ってきたという事実もあります。根本には避けることのできない、老・病・死の問題が横たわっているのですね。私たちはその苦悩からできるだけ目を背けようとし、時に反発しながらますます苦しみを深めているのかもしれませんが。

人間には必ず欲があります。極端ないい方をすれば、欲があるからこそ生きているといえます。人間の欲は数限りなくあるのでしょうが、やっぱり自分の思うようになりたいという思い、それは仏教的言い方をすれば、我執というのですが、その我執によって身を煩わせ心を悩ましています。そして怒りそのものが他に向かっていきがちになります。それは様々な負の連鎖を引き起こしてしまいます。そしてその解決方法を神様とか仏様にお願いすると捉えられていることも無きにしも非ずです。

こんなお話があります。お寺に夫婦で毎日お参りされる方がいらっしゃいましたが、ある日ご主人が脳梗塞で倒れて半身不随になってしまわれたのです。奥様が「私たち何時もお参りしているのに、なんでこんな目に遭わなければならないのですか?」と言われたのです。熱心に法座とか研修会にも参加されていても、思いもよらないことが起こったときには、普段は信仰していた仏様に対しても恨みつらみを言ってしまいかねないのが私たちなのかもしれません。やっぱり人間は逆境になりますと弱いもので、それまではしっかりとらえていた因果の道理などどこ吹く風になってしまい、苦しい中で、溺れる者は藁をもつかむ思いで、あっちに行きこっちに行き、ますます迷いを深めてしまうのかもしれません。

こういう私たちであるが故に、様々な苦しみや悲しみを抱えて生きる私たちの本質を診て、安らぎと喜びを恵与えようという、大悲の誓願である本願をおこされましたのが阿弥陀仏です。本願が至り届いた表れが南无阿弥陀仏となって、煩悩を抱えたままの私を大いなる慈悲の中に包み込んで下さるのです。


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